
平均評価: 4.5 / 4件のユーザーレビューがあります
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著者自身による、吉本文学論/芸術論の易しい再入門書(2008-03-22) 題名を読むと、「乱れきった現代の日本語は、これからどこへ向かおうとしているのか!?」などということが論じられているかのような印象を受けますが、さにあらず。
本書は、吉本さん自身による、吉本文学論/芸術論の易しい再入門書、といった趣きの本です。
「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」などの成り立ちについて、当時を振り返りながら、穏やかな語り口で説明に努めています。
本書を読みながら、若い頃、いかに自分が、それらの吉本主要著書に関し、「木を見て森を見ない」読書をしていたのか、嫌というほど思い知らされました。
当時は、一番大切な、著者のモチーフ、といったものに、全く興味がなかったのです。
今になって、あ、そんなことを書きたかったのか、と気がつく始末。ヤレヤレ…
であるからにして、もし、最近吉本さんの読者になった方で、上記主要著書を未読の方は、本書で予習してから挑戦することをお薦めします。
ところで。内容とは関係のないことで気になることが二つ。
本書は、吉本さんの母校である東京工大での集中講義をまとめたものらしいのですが、同校「世界文明センター」なるところの、橋爪大三郎氏にお世話になったようで、まえがきで謝辞が述べられています。
しかし、件の人物とは、近年、戦争論などで、政治的見解を異にしていたのでは? それとこれとは別、なのかもしれませんが、若い頃の吉本さんだったら、もう少しそこら辺のところに潔癖であったような気がします。
また、本書の最終章で、本当に若い現代詩人に体当たりしておられますが、おおむね否定的な評価の中では、水無田気流という若い詩人を肯定的に取り上げているように読めましたが、この人物、本名は田中理恵子といって、「世界文明センター」フェローを勤めていると、自ら作成した最終章の註に書いています。まえがきで、この人物にも、吉本さんは謝意を表していますが…あの、これって、なんか変な感じがするんですけど…世話になったから評価してみた、ということではないと思ってますが、でも、なんか釈然としませんね…
さいごに、その最終章で、吉本さんが、若い現代詩がなあんも判らないと、否定的だったのは痛快でした。これまで、娘の悪影響だったのか、とにかく、党派性から逃れているというだけで、若い世代を異常に持ち上げていたのが、ここにきて、ようやく目を覚まされたような気がしたからです。
【追伸】
他人のレビューを滅多に読まないので、お留守居役様氏のレビューを今になって読んで、本書の成り立ちがよくわかった。足腰の悪い吉本隆明がどうやって出張講義をやれたのか疑問だったが、謎が氷解した。ビデオ、ですか…
それにしても。水無田気流をインタビュアーにするのであれば、事前に吉本さんに説明しておくというのが礼儀ではないですか?
やっぱりこの本はヘンです。
10人中9人がこのレビューを参考になったと投票しています
読む順番を変えた(2008-03-04)『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』なんて
まったくわかりませんでしたが、
この本はそのさわりを分かりやすく語ってあります。
それとともに、オビにあるように、
「いまの若い人たちの詩」を読んで、
どうして吉本さんが「無」である、と感じたのかが、
書かれています。
ただ、あまりにもオビの文言が強烈だったので、
最終章を読んだあと、1章から順に読みました。
個人的には、この読み方で正解だったと思ってます。
読んでくための動力になったのが、
「なぜ無なのか」という疑問だったので。
まったく勝手な感想ですが、
詩や小説(文学!?)が、
なんとなく引きこもり系になっているところを、
うまく指摘してると思いました。
7人中6人がこのレビューを参考になったと投票しています
記念碑的な一冊(2008-02-01)まず、この本の一読了後に感じた「こと」について書いてみる。
「方法」。1965年の「言語にとって美とはなにか」の最初の単行本刊行以来、吉本隆明氏が粘り強くジリジリと細い一本の「思想と芸術」という「思想の道」を歩み続けてきた「方法」が、わずか250頁足らずのこの「本」(集中講義?)の中で明快に判りやすく述べられている(見てとることができる)。
吉本隆明氏自身が「自分の言語美」に自信を持っていたとはいえ、その後の歩みに自信を持っていたはずだとはいえ、その「言語理論」について30年近くたって『三木成夫の「ヒトのからだ」につぃての考察が、わたしの言語理論にたいして身体生理的な根拠を与えてくれることを知り、自分の言語論を飛躍させることができたとおもう』『わたしはじぶんの言語論が三木成夫の「ヒトのからだ」についての考察と対応がついたとき、深い安堵を覚えたのを記憶して
いる。この記憶は私にとって心のなかで、忘れることのできない無形の記念碑になって聳えている』(「ヒトのからだ〜生物史的考察」(1997年うぶすな書院刊)の解説)と書かざるを得ないほど孤立していたのだ(多分今もそうなのかもしれないが)。
もう一つ、つまらないことなのかもしれないが、書いて見たい。
手元に届いた本の帯に「母校・東工大の集中講義「芸術言語論」を集成」とある。
が、奥付に「2008年1月30日初版1刷発行」とあるのみで、何時の「集中講義」なのか等々全くこの本「本体」からはわからない(ように、できている?)。
吉本隆明氏の前書きにも「年月」の記載がない。足腰も弱って眼も悪くなった吉本氏がどのように講義したのかいささか不審に思って・・・
上記の「お留守居役様」のレビューが無ければ「世界文明センター」のサイトにたどり着くこともできなかったかもしれない。お礼を申し上げる。
が、田中理恵子(水無田気流みなしたきりゅう)氏を「女性編集者」とするだけでは詩人にして世界文明センターフェローが可哀想かも。。。。
ともかく、わたしにとって「記念碑的な一冊」であります。
14人中12人がこのレビューを参考になったと投票しています
『芸術言語論』講義録(2008-01-28)吉本さんが、田中理恵子(水無田気流(みなしたきりう))さんを相手としてビデオ収録した『芸術言語論』
これを田中さんが編集解説して、東京工業大学で、吉本さんを「特任教授」とするビデオ講義となりました。
内容は、『言語にとって美とはなにか』の表現転移論を発展させたものです。
いきなり、『源氏物語』は、退屈である、と本音が語られ愉快になります。
途中、共同幻想論にも言及され、芸術としての言語は、対幻想と個人幻想の間にある。
よって、共同幻想のみでできている統治的短歌には、人間性がないので、芸術的ではないと断言されます。
短歌は、万葉集の問答歌である片歌が発展したもので、上の句と下の句とに分けられ、並行関係から上下関係に変化した。
これは、上の句の客観描写を下の句の主観表現が受けるという関係のことです。
このことは、芭蕉の俳句においても一句の中に主観表現が込められているから、芸術的作品となっているのだと説き及びます。
最後に若い詩人27人の詩を読んだ感想を述べています。かなり否定的に作品に対する疑問が語られています。
このうち水無田気流さんの作品を好意的に批評していますが、
目の前にいる女性編集者が水無田気流さん本人であることに気付かなかったとのことです。(微笑)
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